素人サブカル批評

草映画ライターとして映画評論。たまに他のサブカル評論。

第1回『イージー☆ライダー』と『ロッキー』(前編)

映画論の記念すべき初回。

みなさんは『イージー☆ライダー』と『ロッキー』という映画をご存じでしょうか。

どちらの作品もアメリカ映画史に残る名作なので、きっと観たことはなくても名前は知ってるでしょう。

まず、『イージー☆ライダー』。アメリカン・ニュー・シネマ(以下ANC)というある意味のジャンル映画の記念碑的作品。ANCの映画の特徴として、「主人公はだいたい死ぬ」という点があります。ちなみにこの映画も例外ではない。その衝撃的ラストはとても有名です。

そして、『ロッキー』。これぞ誰でも知っている、あの「エイドリアーーーン!」の映画です。シルベスター・スタローンの出世作でもあります。一般に観客が持つ『ロッキー』のイメージは「スポ根映画」といった感じだと思います。

 

が、

『イージー☆ライダー』と『ロッキー』というこのまったく似ていない作品が持つ共通性に気付いた人はいるでしょうか。それは2つの作品はどちらもアメリカ社会の鏡としての映画だということです。

 

今回は『イージー☆ライダー』の説明をしましょう。

『イージー☆ライダー』は1969年にピーター・フォンダという俳優(有名なジェームス・ディーンの弟分)が監督も兼任して作った映画です。ストーリーのおさらいをしておきます。

メキシコからロサンゼルスへのコカインの密輸で大金を得たワイアット(キャプテン・アメリカ)とビリーは、金をフルカスタムされたハーレー・ダビッドソンのタンク内に隠し、カリフォルニアからマルディグラ謝肉祭)の行われるニューオリンズ目指して旅に出る。

農夫の家でランチをご馳走になったり、ヒッチハイクをしていたヒッピーを拾って彼らのコミューンへ立ち寄ったりと気ままな旅を続ける2人。しかし旅の途中、無許可で祭りのパレードに参加したことを咎められ留置場に入れられる。そこで二人は弁護士ハンセンと出会い、意気投合する。

そして、ハンセンの口利きで釈放された2人は、ハンセンと共にニューオリンズに向けての旅を続ける。しかし、「自由」を体現する彼らは行く先々で沿道の人々の思わぬ拒絶に遭い、ついには殺伐としたアメリカの現実に直面する。

はい、Wikipediaから引用しました。便利ですね、Wiki。

このあらすじの中で大切なのは「キャプテン・アメリカ(以下C.A.)」「カルフォルニアからニューオリンズ」「自由を体現する」ってとこです。当然のことながらC.A.はアメリカを象徴してます。ついでにキャプテン・アメリカのハーレーはアメリカ国旗プリントです。ダサいですね。アメリカ人の悪いとこです。

C.A.と相棒のビリーはカリフォルニアから「目指せ東方!」ってことでニューオリンズに向かうわけです。ところで、アメリカ人にとって「西方に進む」ということには特別な意味がありますよね。そう、西部開拓時代のフロンティア思想を思い起こさせます。それが彼らは東に向かってます。ここにメッセージがあるんじゃないでしょうか。彼らの行動の意味は「昔に戻ろうぜ」「あの素晴らしいアメリカ建国の精神に回帰しようじゃないか」ってことです。

彼らがいたカリフォルニアは自由な街として有名です。当時はヒッピー文化発祥の土地であり、現在は世界最大のゲイ&レズタウンがあります。反対にニューオリンズはアメリカ南部のいわゆる「バイブル・ベルト」に位置します。この地域は伝統的に白人保守派が多いとされ、キリスト教原理主義に近い思想が跋扈するところですね。どのくらい原理主義か…具体例としては「ハリー・ポッターは魔法使いだ!悪魔の手先なんだ!ほら、彼を倒すんだ!」と幼気な少年少女にハリポタマグカップを木端微塵させるキャンプに子供ぶち込む親がたくさんいるくらいです。この様子は『ジーザス・キャンプ』というドキュメンタリー映画に移ってます。ある意味面白いです。ただ、こんな国民がいる国が世界最強の軍事力を持ってると考えるとゾッとしますが。

当然のことながら、長髪ひげ面ハーレー乗りなんていう格好の男を受け入れられるほどのメンタルはこの地域の人々にはないです(俺だってそんなやつごめんですが)。そんな地域に自由な格好をして、自由にマリファナを吸い、自由に移動して、しまいには自由にセックスまでする奴らが突然現れるわけです。彼らと気が合うのはアル中の弁護士ハンセン(ジャック・ニコルソンです)だけなわけです。自由に酒を飲む人間が仲間になりました。しかし、彼はすぐに南部のWASP(White Anglo-Saxon Protestant)に殺されます。ぼっこぼこにされて。彼の死ぬ前のシーンでの言葉は印象的です。「自由を説くことと、自由であることは違う。誰もが自由を語るが、自由な人間を見ることが怖いんだ」。「アメリカの自由なんてファンタジーじゃないか!」ってことです。

そんな理想(かつ幻想)のアメリカを象徴するC.A.とビリーは最後は皮肉にも南部のWASPにショットガンで殺されます。WASPが作ったアメリカはWASPが殺したわけです。

このANCのタイピカルラストは当時のアメリカ映画の常識から考えると衝撃的でした。それ以前のアメリカ映画の代表、西部劇では主人公はほぼ絶対に死なないハンサムな白人でした。彼らは「強いアメリカ」「強い白人」を象徴していたので、殺せるわけなかったわけです。

ここまで『イージー☆ライダー』をおさらいし、ポイントを掴みました。

なぜ、これがアメリカ社会の鏡なのか。

当時のアメリカの白人社会は泥沼化するベトナム戦争と黒人公民権運動の隆盛という内患外憂の状況でした。外では劣等人種であるはずのアジア人に勝てず、中では元奴隷の黒人たちが反乱を起こしてる(白人目線ですが)、といった状況です。つまりはホワイト・アメリカンにとっては著しく不都合な事実が浮き彫りになりかけていたわけです。「アメリカは強い」「そんなアメリカを建国した我々は偉い」というWASPの2大理念が崩壊寸前だったのです。しかしベトナム戦争中、当時の社会風潮は(保守派WASPの特に中年以上)そんなことを認めたくなかったのです。まあ、そろそろ若者は気づいてました。

『イージー☆ライダー』は「WASPの理想国家アメリカは死んだ!」「自由は死んだ!」「殺したのは誰だ?WASP本人たちだ!」と映画を通して叫んだわけです。この若者(西海岸中心)、ヒッピーの気持ちを代弁した作品は圧倒的な彼らの指示のもと、カルト的人気を博したわけです。

 

このように、『イージー☆ライダー』はWASPアメリカの敗北を宣言したんです。映画の目標は「観たいけど観られないものを見せる」か「観たくないけど観るべきものを見せる」ことだといった監督がいましたが、この映画は後者です。アメリカの白人がどうしても認めないことを、映画にして叩きつけたからこそ、この映画は偉大なんです。

 

このANCブームはしばらく続きます。しかし、このANCに反旗を翻したのがロッキー・バルボアだったわけです。(後編へ)

 

【参考映画】

『イージー☆ライダー』―1969年/コロムビア映画

『ジーザス・キャンプ~アメリカを動かすキリスト原理主義~』―2006年/アップリンク

【参考文献】

『〈映画の見方〉がわかる本』町山智浩著/洋泉社