素人サブカル批評

草映画ライターとして映画評論。たまに他のサブカル評論。

バカ映画時報第3弾

バックナンバー第3弾

 

『007 スペクター』
久々に聞いたよスペクター。往年の名悪役軍団だよ。
つまるところ、ポケモンロケット団であり、仮面ライダーのショッカーだよ。
でもね、ここで大問題。ストーリーほぼ覚えてないの。
たぶん、ボンド人を殺す→セックス→殺す→セックス→殺す→セックスという話なはずだ。というか、007シリーズはそれだけで成り立っている。暴力セックスの映画。
あとはガジェットね。最初はミサイル飛ばせて喜んでたはずなのに今やアストンマーチン型水陸両用戦車の様相ですよ。
007にはハズレはないと思うのね。
童貞が心躍るパンチ、おっぱい、メカが出てくるので100人切りでも心は童貞の諸君は要チェックだ。

 

『マネーショート』
ブラピ映画。ブラピはアンジーの影響によって社会的なことを考え始めたらしい。喧嘩クラブの精神的支柱として摩天楼に大規模テロを起こし、ラスベガスのカジノの金庫から巨万の金を窃盗していた人間とは思えない。
この映画でも時代を流すのに写真フラッシュでサブミリナル的にアメリカを批判する。この思考停止タイムの観客を洗脳する手段は数年前の『ジャッキーコーガン』から何も変わっていない。ついでに言えば、最後のセリフが異常に説教くさくて「それこいつが思ったことじゃないじゃん。ブラピの意見じゃん。というかもっと言えば、アンジーの意見じゃんか。」と思わせてしまうのが、この映画の良くないところ。

 

『オデッセイ』
ポテト!この一言で映画を語れる。
ポテトSFという新ジャンルを確立した今作。マット・ディモンはポテト愛で苦境を乗り切ります。
そして観客にポテトの魅力を刷り込み、鑑賞後にはポテト教の一員になっている。
蒸しポテト最強、ケチャップ最強。ついでに精神安定剤最強。
ポテトはマットを救う。マットだけではない。人類を救う。
ポテトは神だ。
というメッセージ性を感じざるをえない。
ただ、後ろの方でポテト神の影が薄くなるので少し寂しい。
その日の夕食?当然ポテトですよ。

 

『ヘイトフルエイト』
タランティーノ監督最新作。
タラちゃん西部劇を2連発してるね。
タラちゃんらしい、掛け合いとかテンポの良さは健在。
あと「痛い痛い痛い痛い!!!」ってなるタイプの暴力描写も健在。
でも、掛け合いという意味では掛け合ってるけども、掛け合いが中途半端になって、結果サスペンスの部分がおろそかになるという…まあ無意味な掛け合いのテンポ感を楽しめるタラちゃんファンの皆さんは見に行けば良いのではないでしょうか。

バカ映画時報第2弾

facebookバックナンバー第2弾

 

『TED2』
前作が大きな話題になった『TED』の第2弾。
前作よりもやや先鋭化したブラックジョークと下ネタは良い。
クソふざけた世界の中に社会性とか、同時期公開の某恐竜映画の1作目のパロディをぶっこんだりとやりたい放題。でも基本はふざけているので、ふざけた映画であることに変わりはないし、どんなに社会性を発揮しても、そもそも主人公テディベアだし。
コメディ映画は映画館の良さがわかるよね。みんなが笑うシーン、分かった人だけが笑うシーンなどがあってね。

 

ジュラシックワールド
ストーリーはない。なんちゃってヒューマンドラマとなんちゃって家族愛となんちゃってラブストーリーをやってる感じ。
ただ、そんなことは大した問題ではなく、この映画の主人公は恐竜なので、ダイナソードラマさえあればいい。
恐竜はリアルだし、戦闘シーンはそれなりに派手だし、海の恐竜最強だし、と恐竜が出てくるシーンだけ見ておけばオールオッケー。

 

進撃の巨人後編』
前編が最高だったから、少しは期待していったんだけど、ちょっと微妙に。
エロ・グロが皆無になって、バイオレンスがすごく小さな規模になってる。
なんかよくわからないほんわかラブストーリーが織り交ぜられた結果、全体として話が緩んでる。
そもそも巨人がほとんど出てこない進撃の巨人って…って思うのは俺だけなのだろうか。

 

『M:I: ローグネーション』
トムさん映画の新作。
トムさんの映画の条件として、
・トムかっこいい
・トム強い
・トムモテモテ
の3つを充していることが重要になってくる。トムかっこいいに関しては人それぞれだと思うので置いとくとして、トム強いに関してはトムの歳を感じさせる。そろそろアクションをノースタンドでやるとおじさんスピードになってしまっている。トムモテモテかどうかというと、振り回しに振り回した女スパイが最終的に大したロマンスもなく去っていくので、ちょっと分かりずらい。
話はスパイものなのでとてもワクワクするのだが、全体としてはトムおっさんになっちゃったよ、映画だね。

バカ映画時報第1弾

今は懐かし、2年前、facebookで始めた勝手に映画評コーナー

その第1弾。バックナンバー。


バケモノの子
細田守らしい家族の物語と夢のある世界観は良い。宮崎駿押井守の合いの子(失礼)のようなアニメ作りをしてくる感じ。
ただ一方で問題は登場人物が自分の気持ちを全部言葉にするので、なんかセリフが多い。
柳下毅一郎は「副音声映画」と言ってるけども、まあ映画つってもアニメだから、気にしないで見ればそんな気になんない。

進撃の巨人
まさか俺がこれを観るとは誰も思わなかったに違いないが、観てしまうのが田舎転勤者の絶望的なところ。
しかし!これまで観た日本のアクション映画の中では娯楽性に関してトップクラス!
エロ(童貞の妄想に近い)、グロ(多くの人間がミートソースになる)、バイオレンス(言わずもがな)の三拍子揃った素晴らしいB級超大作…矛盾してるが気にしない。
4巻まで漫画を買ってあまりのつまらなさに1度は庭で燃やしてやろうかと思った俺でも楽しめたので、なんの感動もないけど楽しい映画を受容できる心の広いシネフィルのみなさんも是非見に行っては!

ピクセル
・ストーリーがない
・売りのゲーム描写がしょぼい
・アメリカ的ハッピーエンド
というクソ映画の博覧会のような映画。
『インディペンデンスデイ』を大してゲーム愛のないオタクが莫大な予算をかけてリメイクしただけみたいな感じ。
これを観るなら、同じ金額をドブに捨てて散歩してた方がいいと思う。

ふっかーつ

このブログの存在をすっかり忘れていた。

いろんなところに草映画ライターとして、素人映画評を書いているのだが、

facebookにぼけっと書くこともあれば、友達が出してるミニコミ的な本に破格のお値段で(ビールジョッキ2杯弱かな)出すこともある−

なんならここに書けばよかったと思っている。こっちの方が多分読みやすい。

そして、なぜか一部に割と好評なので、バックナンバー化しといたら、例えば飲み会がつまらなくて長くトイレに篭っていたい時とか、そういう時の暇つぶしになるかもしれない。あれだ、トイレットペーパーに落書きがあって、それを読むのと同じ感覚だよ。

まあ、自分にそんなこと起きたことないんだけど。

 

誰も読まなくても結構結構。

俺が読むからな!

 

さあさあ、バックナンバー化を始めよう。

新作もこっちに載せてくから、数少ない購読者の皆さんは要チェックだ。

 

第3回『時計仕掛けのオレンジ』~ある作家の復讐~

今回取り上げるのはスタンリー・キューブリックの名作『時計仕掛けのオレンジ』。

映画公開は1971年ですが、原作は1962年出版の同名小説です。作者はアンソニー・バージェス

舞台は近未来(当時から見て)のロンドン。アレックスは仲間4人と不良グループ、「ドルーグ」を作って、日々暴力行為(彼らの言うウルトラ・バイオレンス)を繰り返していました。

路上で寝ていたホームレスを棍棒でボコボコにしたり少女をレイプしようとしていた他の不良グループを襲撃して棍棒でボコボコにしたり、作家の家に押し入って縛った作家をジーン・ケリーの主演作『雨に唄えば』のテーマ曲を歌いながら蹴りつつ、妻をレイプしたり、やりたい放題です。

こんなひどい行為を繰り返すアレックスですが、その描き方は実に魅力的です。自由気ままに発言をし、不良少年を率いていても、かっこいい服を着こなし、ベートーベンをこよなく愛します。奔放な発言とファッションセンス、カリスマ性と音楽的才能はロックスターのようです。キューブリックはここまでの描写でアレックスをわざと魅力的な主人公として描き、観客が彼が暴力行為から感じる快感を共有させようとしています。ここで言いたいのは「ほら、人間なんて、みんな根源的には暴力的なんだよ」ということでしょう。

ここまでの描写でもう一つ、特筆すべきことがあります。それは「ドルーグ」とアレックスたちが襲撃した不良グループ(「ビリーボーイズ」だったかな?)の服装です。

「ドルーグ」はイギリスのトラディショナルスーツのようなものを着こなし、ステッキを持っています。「ビリーボーイズ」はナチスの制服のようなコスチュームです。これは1960年当初イギリスで一種の二大流行となっていた「モッズ」と「ロッカーズ」の対立のメタファーとなっています。「ドルーグ」は「モッズ」で「ビリーボーイズ」は「ロッカーズ」です。この当時の「モッズvsロッカーズ」の構図は『さらば青春の光』という映画で詳しく描かれています。ちなみに『さらば青春の光』はモッズを代表するロックバンド、ザ・フーのアルバム『四重人格』をもとにザ・フー自身が作った映画です。つまり、この作品の舞台となったロンドンは近未来とは言いつつも出版当時のロンドンなわけです。もう一つ近未来じゃなくて現代であることが示唆されるのが、「ドルーグ」に棍棒で殺されるホームレスの「なんて時代だ。人類は地球の周りを回り、月まで行ってるのに誰も地上の秩序には注意を払わないんだ。」という言葉です。アポロ11号が月に行ったのは映画公開の2年前1969年のことです。この表現も「現代です」というメタファーと言えるでしょう。

ちなみにアレックスのしたいこと「レイプ、薬(ドラッグ入りミルク飲んでる)、暴力」は出版当時の若者たちが実現します。それが「セックス(=レイプ)、ドラッグ(=薬)、ロックンロール(=暴力)」ってやつです。

 

これまで順調に暴力を楽しんできたアレックスでしたが、ちょっとした軋轢から仲間に裏切られ、強盗を失敗した挙句、男性器の形のモニュメントで老婦人を殴り殺した上で警察に捕まり、刑務所に収監されます。ちなみに男性器というのはアレックスの性欲を象徴しています。レイプするときにつけるお面の鼻、CDショップでアレックスがナンパした後3Pする少女が舐めてた飴など、アレックスの暴力や性行動にかかわる場面に登場します。ちなみにアレックスを保護観察している男も「よい子にしてたか?」と聞きながら、彼の性器を握ります。「よい子」の主題はそこにあるわけです。

しかし、その刑務所を訪れた内務大臣に見いだされてルドヴィコ治療という治療を受けます。これはオペラント条件付けと言われたネズミの実験(レバーを押すと餌が出る仕組みをネズミに与えると、餌が出なくてもレバーを押し続ける)を人間に応用するものです。まあ、わかりやすく言えば、有名な「パブロフの犬」を人間にも適用できるだろ、ってことです。不快感を与える薬を投与しては無理矢理暴力の映像を観させ続ければ、暴力を不快に感じるようにさせるという治療であるルドヴィコ治療をアレックスは受けます。彼が見る映像にはナチスの大量虐殺が映っているようです。彼の暴力なんて国家の力が総動員された暴力に比べれば、しょぼいもんだったわけです。

治療の結果、彼は暴力を不快に感じるようになりましたが、治療中にベートーベンもかかっていたために副作用でベートーベンも嫌いになってしまいます。彼はどこにいっても居場所がなく、あんなに魅力的だったアレックスは惨めに描かれます。生気がなく、国家によって統制された彼はまさに時計仕掛けのオレンジです。時計仕掛けのオレンジ a clockwork orangeはコックニー(ロンドン下町言葉)で「張り合いがなく、バカみたいな奴」という意味です。ちなみにバージェスはフィリピンにいたことがあり、現地語でorangは人を表します(ちなみにオランウータンorangutanは「森の人」という意味)。そのことから、a clockwork orangeは時計仕掛けの人間という意味を持つという説まであります。

これはキューブリック(そして、バージェス)の「どんな暴力も国家の飼い犬のようにされることに比べたらマシだ」というメッセージかも知れません。

 

しかし、話はこれで終わりません。昔の仲間にいじめられたアレックスはとある家に逃げ込みます。その家は彼が逮捕前に押し入って妻をレイプした作家の家でした。レイプ後、彼の妻は自殺し、作家は半身不随になっていました。アレックスはルドヴィコ治療のことを作家に伝えます。その作家は人権擁護派なのか、アレックスを担いでルドヴィコ治療反対キャンペーンを開こうとします。アレックスはレイプの時お面をかぶっていたので、作家は目の前のアレックスが犯人だとは気づきません。

しかし、アレックスは作家に風呂を貸してもらって入ってるとき、『雨に唄えば』を口ずさんでしまいます。作家は気づきました。彼は真犯人だと。

作家の復讐が始まります。彼はアレックスに無理矢理ベートーベンを聞かせて拷問します。なぜ、この作家は復讐するのでしょうか。「人間は暴力的だが、国家の暴力に比べればそんなもの…」というメッセージは伝え終わったはずなのに、なぜバージェスは続きを書いているんでしょうか。

それはこの作家の妻がレイプされる事件はバージェスの実体験だからです。二次大戦中にバージェスの妻は駐留米軍からの脱走兵である若者にレイプされています。彼の妻は自殺していませんが、一生そのことに悩んでいくわけです。

この原作(映画もある程度忠実)は前半は彼の国家への強烈な皮肉を込めたディストピア小説ですが、後半は彼自身の復讐なんです。事実、アレックスが最初に作家の家を訪れた時に彼が書いていたのは"A Clockworks Orange"、つまり『時計仕掛けのオレンジ』です。バージェスでさえ、復讐という暴力の欲望には勝てないということも表したかったのかもしれないですね。事実、作家がアレックスを拷問しているときの作家の顔は、アレックスの不良時代、彼がウルトラ・バイオレンスを実行しているときのように、恍惚としています。

 

作家に拷問された彼は窓から飛び降りますが、一命を取り留めます。

病院に入院している彼はもう暴力にまったく嫌悪感を抱きません。彼はルドヴィコ治療から「完治」したわけです。そこへあの内務大臣が訪ねてきます。彼は悪名高きルドヴィコ治療からの復活者という英雄として、アレックスに政権支持率の回復への協力を要請され、アレックスは快諾します。快諾した彼にプレゼントとして大音量のベートーベンが届けられますが、彼はもう不快感を示さず、レイプの想像とともに、恍惚としています。彼は完全に元のアレックスに戻ったわけです。

なぜ、彼は自分をあんなにひどい目に合わせた内務大臣の申し出に協力するんでしょうか。答えはこの作品の中にあります。人間は根源的に暴力を好むもので、その権化がアレックスです。つまり、「アレックスがしてること、みんなも実はしたいんだろ?」ってことですね。アレックスは持前のカリスマ性を動員してタレント議員にでもなるんでしょう。彼は、個人レベルの暴力には飽き足らず、国家レベルでウルトラ・バイオレンスを実現するでしょう。何しろ、彼自身が、国家の暴力の体験者なわけですから。

なぜこんなやつが国会議員になれるのかって?

日本にも、レイプ事件を起こすもとになった小説書いた奴が都知事から国会議員に復活したり、少女買春したやつが国会議員になったりしてるじゃないですか。

 

(おしまい)

 

【参考映画】

『時計仕掛けのオレンジ』―1971年/ワーナーブラザース

『雨に唄えば』―1952年/MGM

さらば青春の光』―1979年/ザ・フー・フィルム

【参考文献】

『〈映画の見方〉がわかる本』町山智浩著/洋泉社

第2回『イージー☆ライダー』と『ロッキー』(後編)

意外と好評だったので、昨日に引き続き第2回。とりあえず、1稿完成させます。

前回は『イージー☆ライダー』を評論しました(第1回参照)。

 

今回は『ロッキー』の評論から始めます。

誰もが知っている『ロッキー』。とりあえず、ストーリーのおさらい。

シルベスター・スタローン演じるロッキー・バルボアは借金の取り立てで金を稼いでいる三流ボクサーです。素質はあるのにやさぐれて努力をしないでいるロッキーは周りの人から愛想を尽かされつつあります。そんな折、当時のボクシング世界チャンピオンである黒人ボクサーアポロ・グリードが対戦相手が負傷したことから新しい対戦相手を探していました。

ロッキーは「イタリアの種馬」という不思議なニックネームを持っていたことから、その対戦相手に選ばれます。ロッキーは周りの支えで自分が孤独じゃないことに気づき、血のにじむような努力をして、アポロ相手に大健闘をします。判定の末、敗れてしまったものの、ロッキーは15ラウンド戦い抜くことで自分がごろつきではないということを証明し、満足感の中、恋人エイドリアンと熱い抱擁を交わします。

まあ、そんなところです。今回はWikiに頼りませんでしたよ。

この映画は当時代表作なしのポルノ映画俳優だったスタローンが脚本を構想した作品で、プロデューサーはスタローン以外の有名俳優に主演をさせようとしたのですが、スタローンが主演を熱望し、実現させた作品です。

この映画が象徴するのは「アメリカン・ドリーム」と「アンチ・アメリカン・ニュー・シネマ」ということです。

ANCは1930~50年代のアメリカ映画に対する反動で生まれました。主人公は品行方正かつ最強の英雄(Ex.カウボーイ)であり、最後は世界を救ってにこやかに終わる西部劇が1930~50年代映画の典型だったところにバッド・エンド、個人である英雄に対するアンチズムの旋風を巻き起こしたのがANCです。

ANCが象徴するように当時の白人はベトナム戦争での敗北と黒人の台頭によって、自信を失っていました。黒人の台頭は文化の分野で顕著でした。代表的なアーティストはジミ・ヘンドリックスですね。彼はエレクトリック・ギターの奏法に革命を起こし、リトル・リチャード(ロックの神様)など黒人が生み出したものの、エルヴィス・プレスリー以来ビートルズローリングストーンズなど、白人が支配的だったロックの分野に旋風を巻き起こしました。彼は有名なウッドストック・フェスティバルに白人歌手にまじって参加しています。

このブラック・パワー隆盛の象徴がカシアス・クレイというボクサーでした。彼のボクシングスタイルは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と言われました。そう、カシアス・クレイモハメド・アリの出生名です。当時最強のボクサーとして多くの白人をリングに沈め、公民権運動にも盛んに参加して、ビッグマウスとして知られた彼は黒人台頭の象徴であり、白人没落の象徴でもあったのです。

ところで、ロッキーの敵ボクサーアポロは黒人です。彼はアメリカンドリームを体現しています。当然ですがアポロはモハメド・アリのメタファーです。ちなみにこの映画では白人登場人物はことごとく貧乏で、逆に黒人はほとんどが金持ちです(アポロもそのプロモーターも)。この登場人物の配置が当時の白人から見たアメリカ社会全体のメタファーになっています。「白人が作ったアメリカという国でアメリカンドリームを掴んでるのは黒人ばかりじゃないか!」という状況を象徴しています。ちなみにロッキーのあだ名は「イタリアの種馬」とさっき言いましたが、種馬は英語でstallionです。つまり、「イタリアの種馬」はItalian Stallionなわけです。そして、このstallionはスタローンStalloneと同じ語源です。で、シルベスター・スタローンはイタリア系です。つまり、彼が構想したこの話の主人公ロッキーは彼自身の投影でもあったわけです。

シルベスター・スタローンは後にも先にも演技派だったことはないです(それは彼の顔面が幼少期の事故で麻痺していることもあるのですが)。しかし、ロッキーにおける彼の演技は迫真です。売れない貧乏俳優のスタローンが心の叫びを、勝てない三流ボクサーのロッキーにぶつけたわけですから、当然です。

このように、『ロッキー』という映画はスタローン自身の心の叫びであり、またアメリカ白人社会に漂っていた閉塞感、自信の喪失に対するアンチテーゼだったわけです。

「俺だってできるんだ!」というスタローンの叫びと「白人よ、黒人に負けるな!」「アメリカン・ドリームはまだある!」「自信を持とう!アメリカは素晴らしい国だ!」という白人へのメッセージがこの作品には混在してるんじゃないでしょうか。スタローンがフィラデルフィアに住んでいたことから、フィラデルフィアで撮影が行われましたが、偶然このフィラデルフィアでアメリカ独立宣言が構想されたわけです。このこともまた、白人が作った白人の国アメリカへの回帰願望を感じさせます。この映画の大ヒットでANCは終焉は決定的になり、映画の主流は1930~1950年代に回帰しました(この流れは現在まで続いているといえる)。

アメリカンドリームを叶えたシルベスター・スタローンはその後『ランボー』でベトナム戦争帰還兵の叫びを代弁します。シルベスター・スタローンはアメリカ白人保守層の理想の代弁者であり続けているわけです。

最後に与太話ですが、『ロッキー』も『ランボー』もシリーズものですが、観る価値があるのは第1作のみです。2作目以降は何とも残念な形になります。

 

ここまで、『イージー☆ライダー』『ロッキー』とアメリカ社会史を並べてみてきました。『イージー☆ライダー』と『ロッキー』はジャンルも内容も全く違う映画ですが、その作品が反映した社会は一つの時系列の中にあるんです。白人万歳社会からベトナム戦争と公民権運動を通して多民族に敗北して自信を失っていたけども、さらに再反発して白人の英雄が生まれたわけです。

アメリカ映画はバカ映画(バカ映画も好きなのでいつか特集します)が多いですが、それぞれの作品がアメリカ社会の風潮を反映していることが多いです。

社会史から見るアメリカ映画というのも面白いんじゃないでしょうか。

 

おしまい

 

【参考映画】

『ロッキー』―1976年/ユナイテッド・アーティスツ

【参考文献】

『〈映画の見方〉がわかる本』町山智浩著/洋泉社

第1回『イージー☆ライダー』と『ロッキー』(前編)

映画論の記念すべき初回。

みなさんは『イージー☆ライダー』と『ロッキー』という映画をご存じでしょうか。

どちらの作品もアメリカ映画史に残る名作なので、きっと観たことはなくても名前は知ってるでしょう。

まず、『イージー☆ライダー』。アメリカン・ニュー・シネマ(以下ANC)というある意味のジャンル映画の記念碑的作品。ANCの映画の特徴として、「主人公はだいたい死ぬ」という点があります。ちなみにこの映画も例外ではない。その衝撃的ラストはとても有名です。

そして、『ロッキー』。これぞ誰でも知っている、あの「エイドリアーーーン!」の映画です。シルベスター・スタローンの出世作でもあります。一般に観客が持つ『ロッキー』のイメージは「スポ根映画」といった感じだと思います。

 

が、

『イージー☆ライダー』と『ロッキー』というこのまったく似ていない作品が持つ共通性に気付いた人はいるでしょうか。それは2つの作品はどちらもアメリカ社会の鏡としての映画だということです。

 

今回は『イージー☆ライダー』の説明をしましょう。

『イージー☆ライダー』は1969年にピーター・フォンダという俳優(有名なジェームス・ディーンの弟分)が監督も兼任して作った映画です。ストーリーのおさらいをしておきます。

メキシコからロサンゼルスへのコカインの密輸で大金を得たワイアット(キャプテン・アメリカ)とビリーは、金をフルカスタムされたハーレー・ダビッドソンのタンク内に隠し、カリフォルニアからマルディグラ謝肉祭)の行われるニューオリンズ目指して旅に出る。

農夫の家でランチをご馳走になったり、ヒッチハイクをしていたヒッピーを拾って彼らのコミューンへ立ち寄ったりと気ままな旅を続ける2人。しかし旅の途中、無許可で祭りのパレードに参加したことを咎められ留置場に入れられる。そこで二人は弁護士ハンセンと出会い、意気投合する。

そして、ハンセンの口利きで釈放された2人は、ハンセンと共にニューオリンズに向けての旅を続ける。しかし、「自由」を体現する彼らは行く先々で沿道の人々の思わぬ拒絶に遭い、ついには殺伐としたアメリカの現実に直面する。

はい、Wikipediaから引用しました。便利ですね、Wiki。

このあらすじの中で大切なのは「キャプテン・アメリカ(以下C.A.)」「カルフォルニアからニューオリンズ」「自由を体現する」ってとこです。当然のことながらC.A.はアメリカを象徴してます。ついでにキャプテン・アメリカのハーレーはアメリカ国旗プリントです。ダサいですね。アメリカ人の悪いとこです。

C.A.と相棒のビリーはカリフォルニアから「目指せ東方!」ってことでニューオリンズに向かうわけです。ところで、アメリカ人にとって「西方に進む」ということには特別な意味がありますよね。そう、西部開拓時代のフロンティア思想を思い起こさせます。それが彼らは東に向かってます。ここにメッセージがあるんじゃないでしょうか。彼らの行動の意味は「昔に戻ろうぜ」「あの素晴らしいアメリカ建国の精神に回帰しようじゃないか」ってことです。

彼らがいたカリフォルニアは自由な街として有名です。当時はヒッピー文化発祥の土地であり、現在は世界最大のゲイ&レズタウンがあります。反対にニューオリンズはアメリカ南部のいわゆる「バイブル・ベルト」に位置します。この地域は伝統的に白人保守派が多いとされ、キリスト教原理主義に近い思想が跋扈するところですね。どのくらい原理主義か…具体例としては「ハリー・ポッターは魔法使いだ!悪魔の手先なんだ!ほら、彼を倒すんだ!」と幼気な少年少女にハリポタマグカップを木端微塵させるキャンプに子供ぶち込む親がたくさんいるくらいです。この様子は『ジーザス・キャンプ』というドキュメンタリー映画に移ってます。ある意味面白いです。ただ、こんな国民がいる国が世界最強の軍事力を持ってると考えるとゾッとしますが。

当然のことながら、長髪ひげ面ハーレー乗りなんていう格好の男を受け入れられるほどのメンタルはこの地域の人々にはないです(俺だってそんなやつごめんですが)。そんな地域に自由な格好をして、自由にマリファナを吸い、自由に移動して、しまいには自由にセックスまでする奴らが突然現れるわけです。彼らと気が合うのはアル中の弁護士ハンセン(ジャック・ニコルソンです)だけなわけです。自由に酒を飲む人間が仲間になりました。しかし、彼はすぐに南部のWASP(White Anglo-Saxon Protestant)に殺されます。ぼっこぼこにされて。彼の死ぬ前のシーンでの言葉は印象的です。「自由を説くことと、自由であることは違う。誰もが自由を語るが、自由な人間を見ることが怖いんだ」。「アメリカの自由なんてファンタジーじゃないか!」ってことです。

そんな理想(かつ幻想)のアメリカを象徴するC.A.とビリーは最後は皮肉にも南部のWASPにショットガンで殺されます。WASPが作ったアメリカはWASPが殺したわけです。

このANCのタイピカルラストは当時のアメリカ映画の常識から考えると衝撃的でした。それ以前のアメリカ映画の代表、西部劇では主人公はほぼ絶対に死なないハンサムな白人でした。彼らは「強いアメリカ」「強い白人」を象徴していたので、殺せるわけなかったわけです。

ここまで『イージー☆ライダー』をおさらいし、ポイントを掴みました。

なぜ、これがアメリカ社会の鏡なのか。

当時のアメリカの白人社会は泥沼化するベトナム戦争と黒人公民権運動の隆盛という内患外憂の状況でした。外では劣等人種であるはずのアジア人に勝てず、中では元奴隷の黒人たちが反乱を起こしてる(白人目線ですが)、といった状況です。つまりはホワイト・アメリカンにとっては著しく不都合な事実が浮き彫りになりかけていたわけです。「アメリカは強い」「そんなアメリカを建国した我々は偉い」というWASPの2大理念が崩壊寸前だったのです。しかしベトナム戦争中、当時の社会風潮は(保守派WASPの特に中年以上)そんなことを認めたくなかったのです。まあ、そろそろ若者は気づいてました。

『イージー☆ライダー』は「WASPの理想国家アメリカは死んだ!」「自由は死んだ!」「殺したのは誰だ?WASP本人たちだ!」と映画を通して叫んだわけです。この若者(西海岸中心)、ヒッピーの気持ちを代弁した作品は圧倒的な彼らの指示のもと、カルト的人気を博したわけです。

 

このように、『イージー☆ライダー』はWASPアメリカの敗北を宣言したんです。映画の目標は「観たいけど観られないものを見せる」か「観たくないけど観るべきものを見せる」ことだといった監督がいましたが、この映画は後者です。アメリカの白人がどうしても認めないことを、映画にして叩きつけたからこそ、この映画は偉大なんです。

 

このANCブームはしばらく続きます。しかし、このANCに反旗を翻したのがロッキー・バルボアだったわけです。(後編へ)

 

【参考映画】

『イージー☆ライダー』―1969年/コロムビア映画

『ジーザス・キャンプ~アメリカを動かすキリスト原理主義~』―2006年/アップリンク

【参考文献】

『〈映画の見方〉がわかる本』町山智浩著/洋泉社