素人サブカル批評

草映画ライターとして映画評論。たまに他のサブカル評論。

第2回『イージー☆ライダー』と『ロッキー』(後編)

意外と好評だったので、昨日に引き続き第2回。とりあえず、1稿完成させます。

前回は『イージー☆ライダー』を評論しました(第1回参照)。

 

今回は『ロッキー』の評論から始めます。

誰もが知っている『ロッキー』。とりあえず、ストーリーのおさらい。

シルベスター・スタローン演じるロッキー・バルボアは借金の取り立てで金を稼いでいる三流ボクサーです。素質はあるのにやさぐれて努力をしないでいるロッキーは周りの人から愛想を尽かされつつあります。そんな折、当時のボクシング世界チャンピオンである黒人ボクサーアポロ・グリードが対戦相手が負傷したことから新しい対戦相手を探していました。

ロッキーは「イタリアの種馬」という不思議なニックネームを持っていたことから、その対戦相手に選ばれます。ロッキーは周りの支えで自分が孤独じゃないことに気づき、血のにじむような努力をして、アポロ相手に大健闘をします。判定の末、敗れてしまったものの、ロッキーは15ラウンド戦い抜くことで自分がごろつきではないということを証明し、満足感の中、恋人エイドリアンと熱い抱擁を交わします。

まあ、そんなところです。今回はWikiに頼りませんでしたよ。

この映画は当時代表作なしのポルノ映画俳優だったスタローンが脚本を構想した作品で、プロデューサーはスタローン以外の有名俳優に主演をさせようとしたのですが、スタローンが主演を熱望し、実現させた作品です。

この映画が象徴するのは「アメリカン・ドリーム」と「アンチ・アメリカン・ニュー・シネマ」ということです。

ANCは1930~50年代のアメリカ映画に対する反動で生まれました。主人公は品行方正かつ最強の英雄(Ex.カウボーイ)であり、最後は世界を救ってにこやかに終わる西部劇が1930~50年代映画の典型だったところにバッド・エンド、個人である英雄に対するアンチズムの旋風を巻き起こしたのがANCです。

ANCが象徴するように当時の白人はベトナム戦争での敗北と黒人の台頭によって、自信を失っていました。黒人の台頭は文化の分野で顕著でした。代表的なアーティストはジミ・ヘンドリックスですね。彼はエレクトリック・ギターの奏法に革命を起こし、リトル・リチャード(ロックの神様)など黒人が生み出したものの、エルヴィス・プレスリー以来ビートルズローリングストーンズなど、白人が支配的だったロックの分野に旋風を巻き起こしました。彼は有名なウッドストック・フェスティバルに白人歌手にまじって参加しています。

このブラック・パワー隆盛の象徴がカシアス・クレイというボクサーでした。彼のボクシングスタイルは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と言われました。そう、カシアス・クレイモハメド・アリの出生名です。当時最強のボクサーとして多くの白人をリングに沈め、公民権運動にも盛んに参加して、ビッグマウスとして知られた彼は黒人台頭の象徴であり、白人没落の象徴でもあったのです。

ところで、ロッキーの敵ボクサーアポロは黒人です。彼はアメリカンドリームを体現しています。当然ですがアポロはモハメド・アリのメタファーです。ちなみにこの映画では白人登場人物はことごとく貧乏で、逆に黒人はほとんどが金持ちです(アポロもそのプロモーターも)。この登場人物の配置が当時の白人から見たアメリカ社会全体のメタファーになっています。「白人が作ったアメリカという国でアメリカンドリームを掴んでるのは黒人ばかりじゃないか!」という状況を象徴しています。ちなみにロッキーのあだ名は「イタリアの種馬」とさっき言いましたが、種馬は英語でstallionです。つまり、「イタリアの種馬」はItalian Stallionなわけです。そして、このstallionはスタローンStalloneと同じ語源です。で、シルベスター・スタローンはイタリア系です。つまり、彼が構想したこの話の主人公ロッキーは彼自身の投影でもあったわけです。

シルベスター・スタローンは後にも先にも演技派だったことはないです(それは彼の顔面が幼少期の事故で麻痺していることもあるのですが)。しかし、ロッキーにおける彼の演技は迫真です。売れない貧乏俳優のスタローンが心の叫びを、勝てない三流ボクサーのロッキーにぶつけたわけですから、当然です。

このように、『ロッキー』という映画はスタローン自身の心の叫びであり、またアメリカ白人社会に漂っていた閉塞感、自信の喪失に対するアンチテーゼだったわけです。

「俺だってできるんだ!」というスタローンの叫びと「白人よ、黒人に負けるな!」「アメリカン・ドリームはまだある!」「自信を持とう!アメリカは素晴らしい国だ!」という白人へのメッセージがこの作品には混在してるんじゃないでしょうか。スタローンがフィラデルフィアに住んでいたことから、フィラデルフィアで撮影が行われましたが、偶然このフィラデルフィアでアメリカ独立宣言が構想されたわけです。このこともまた、白人が作った白人の国アメリカへの回帰願望を感じさせます。この映画の大ヒットでANCは終焉は決定的になり、映画の主流は1930~1950年代に回帰しました(この流れは現在まで続いているといえる)。

アメリカンドリームを叶えたシルベスター・スタローンはその後『ランボー』でベトナム戦争帰還兵の叫びを代弁します。シルベスター・スタローンはアメリカ白人保守層の理想の代弁者であり続けているわけです。

最後に与太話ですが、『ロッキー』も『ランボー』もシリーズものですが、観る価値があるのは第1作のみです。2作目以降は何とも残念な形になります。

 

ここまで、『イージー☆ライダー』『ロッキー』とアメリカ社会史を並べてみてきました。『イージー☆ライダー』と『ロッキー』はジャンルも内容も全く違う映画ですが、その作品が反映した社会は一つの時系列の中にあるんです。白人万歳社会からベトナム戦争と公民権運動を通して多民族に敗北して自信を失っていたけども、さらに再反発して白人の英雄が生まれたわけです。

アメリカ映画はバカ映画(バカ映画も好きなのでいつか特集します)が多いですが、それぞれの作品がアメリカ社会の風潮を反映していることが多いです。

社会史から見るアメリカ映画というのも面白いんじゃないでしょうか。

 

おしまい

 

【参考映画】

『ロッキー』―1976年/ユナイテッド・アーティスツ

【参考文献】

『〈映画の見方〉がわかる本』町山智浩著/洋泉社

第1回『イージー☆ライダー』と『ロッキー』(前編)

映画論の記念すべき初回。

みなさんは『イージー☆ライダー』と『ロッキー』という映画をご存じでしょうか。

どちらの作品もアメリカ映画史に残る名作なので、きっと観たことはなくても名前は知ってるでしょう。

まず、『イージー☆ライダー』。アメリカン・ニュー・シネマ(以下ANC)というある意味のジャンル映画の記念碑的作品。ANCの映画の特徴として、「主人公はだいたい死ぬ」という点があります。ちなみにこの映画も例外ではない。その衝撃的ラストはとても有名です。

そして、『ロッキー』。これぞ誰でも知っている、あの「エイドリアーーーン!」の映画です。シルベスター・スタローンの出世作でもあります。一般に観客が持つ『ロッキー』のイメージは「スポ根映画」といった感じだと思います。

 

が、

『イージー☆ライダー』と『ロッキー』というこのまったく似ていない作品が持つ共通性に気付いた人はいるでしょうか。それは2つの作品はどちらもアメリカ社会の鏡としての映画だということです。

 

今回は『イージー☆ライダー』の説明をしましょう。

『イージー☆ライダー』は1969年にピーター・フォンダという俳優(有名なジェームス・ディーンの弟分)が監督も兼任して作った映画です。ストーリーのおさらいをしておきます。

メキシコからロサンゼルスへのコカインの密輸で大金を得たワイアット(キャプテン・アメリカ)とビリーは、金をフルカスタムされたハーレー・ダビッドソンのタンク内に隠し、カリフォルニアからマルディグラ謝肉祭)の行われるニューオリンズ目指して旅に出る。

農夫の家でランチをご馳走になったり、ヒッチハイクをしていたヒッピーを拾って彼らのコミューンへ立ち寄ったりと気ままな旅を続ける2人。しかし旅の途中、無許可で祭りのパレードに参加したことを咎められ留置場に入れられる。そこで二人は弁護士ハンセンと出会い、意気投合する。

そして、ハンセンの口利きで釈放された2人は、ハンセンと共にニューオリンズに向けての旅を続ける。しかし、「自由」を体現する彼らは行く先々で沿道の人々の思わぬ拒絶に遭い、ついには殺伐としたアメリカの現実に直面する。

はい、Wikipediaから引用しました。便利ですね、Wiki。

このあらすじの中で大切なのは「キャプテン・アメリカ(以下C.A.)」「カルフォルニアからニューオリンズ」「自由を体現する」ってとこです。当然のことながらC.A.はアメリカを象徴してます。ついでにキャプテン・アメリカのハーレーはアメリカ国旗プリントです。ダサいですね。アメリカ人の悪いとこです。

C.A.と相棒のビリーはカリフォルニアから「目指せ東方!」ってことでニューオリンズに向かうわけです。ところで、アメリカ人にとって「西方に進む」ということには特別な意味がありますよね。そう、西部開拓時代のフロンティア思想を思い起こさせます。それが彼らは東に向かってます。ここにメッセージがあるんじゃないでしょうか。彼らの行動の意味は「昔に戻ろうぜ」「あの素晴らしいアメリカ建国の精神に回帰しようじゃないか」ってことです。

彼らがいたカリフォルニアは自由な街として有名です。当時はヒッピー文化発祥の土地であり、現在は世界最大のゲイ&レズタウンがあります。反対にニューオリンズはアメリカ南部のいわゆる「バイブル・ベルト」に位置します。この地域は伝統的に白人保守派が多いとされ、キリスト教原理主義に近い思想が跋扈するところですね。どのくらい原理主義か…具体例としては「ハリー・ポッターは魔法使いだ!悪魔の手先なんだ!ほら、彼を倒すんだ!」と幼気な少年少女にハリポタマグカップを木端微塵させるキャンプに子供ぶち込む親がたくさんいるくらいです。この様子は『ジーザス・キャンプ』というドキュメンタリー映画に移ってます。ある意味面白いです。ただ、こんな国民がいる国が世界最強の軍事力を持ってると考えるとゾッとしますが。

当然のことながら、長髪ひげ面ハーレー乗りなんていう格好の男を受け入れられるほどのメンタルはこの地域の人々にはないです(俺だってそんなやつごめんですが)。そんな地域に自由な格好をして、自由にマリファナを吸い、自由に移動して、しまいには自由にセックスまでする奴らが突然現れるわけです。彼らと気が合うのはアル中の弁護士ハンセン(ジャック・ニコルソンです)だけなわけです。自由に酒を飲む人間が仲間になりました。しかし、彼はすぐに南部のWASP(White Anglo-Saxon Protestant)に殺されます。ぼっこぼこにされて。彼の死ぬ前のシーンでの言葉は印象的です。「自由を説くことと、自由であることは違う。誰もが自由を語るが、自由な人間を見ることが怖いんだ」。「アメリカの自由なんてファンタジーじゃないか!」ってことです。

そんな理想(かつ幻想)のアメリカを象徴するC.A.とビリーは最後は皮肉にも南部のWASPにショットガンで殺されます。WASPが作ったアメリカはWASPが殺したわけです。

このANCのタイピカルラストは当時のアメリカ映画の常識から考えると衝撃的でした。それ以前のアメリカ映画の代表、西部劇では主人公はほぼ絶対に死なないハンサムな白人でした。彼らは「強いアメリカ」「強い白人」を象徴していたので、殺せるわけなかったわけです。

ここまで『イージー☆ライダー』をおさらいし、ポイントを掴みました。

なぜ、これがアメリカ社会の鏡なのか。

当時のアメリカの白人社会は泥沼化するベトナム戦争と黒人公民権運動の隆盛という内患外憂の状況でした。外では劣等人種であるはずのアジア人に勝てず、中では元奴隷の黒人たちが反乱を起こしてる(白人目線ですが)、といった状況です。つまりはホワイト・アメリカンにとっては著しく不都合な事実が浮き彫りになりかけていたわけです。「アメリカは強い」「そんなアメリカを建国した我々は偉い」というWASPの2大理念が崩壊寸前だったのです。しかしベトナム戦争中、当時の社会風潮は(保守派WASPの特に中年以上)そんなことを認めたくなかったのです。まあ、そろそろ若者は気づいてました。

『イージー☆ライダー』は「WASPの理想国家アメリカは死んだ!」「自由は死んだ!」「殺したのは誰だ?WASP本人たちだ!」と映画を通して叫んだわけです。この若者(西海岸中心)、ヒッピーの気持ちを代弁した作品は圧倒的な彼らの指示のもと、カルト的人気を博したわけです。

 

このように、『イージー☆ライダー』はWASPアメリカの敗北を宣言したんです。映画の目標は「観たいけど観られないものを見せる」か「観たくないけど観るべきものを見せる」ことだといった監督がいましたが、この映画は後者です。アメリカの白人がどうしても認めないことを、映画にして叩きつけたからこそ、この映画は偉大なんです。

 

このANCブームはしばらく続きます。しかし、このANCに反旗を翻したのがロッキー・バルボアだったわけです。(後編へ)

 

【参考映画】

『イージー☆ライダー』―1969年/コロムビア映画

『ジーザス・キャンプ~アメリカを動かすキリスト原理主義~』―2006年/アップリンク

【参考文献】

『〈映画の見方〉がわかる本』町山智浩著/洋泉社