素人サブカル批評

草映画ライターとして映画評論。たまに他のサブカル評論。

バカ映画時報第8弾

バックナンバー第8弾

『昼飯時にふと思い出した、僕の脳みそが見なかったことにしていた映画』評

そういえばこんな映画も見ていました。

銀魂』/ 福田雄一
まず最初に確認しておきたいことがある。
僕は福田雄一が大嫌いだ。
・刹那的な笑いのためのストーリーの崩壊
・内輪も内輪、半径10cmにしかわからない内輪ネタをしたり顔でぶっこんでくる
・面白くないことをあえて面白いかのようにやっちゃう俺すごくない?という歪んだ自己顕示欲
…まあつまり視聴者のテレビ離れを引き起こした要素を凝縮した映画を乱発している。
日本映画界から早急に彼を追放した方がいい、とまで思っている。

が、『銀魂』を観てしまった。
原作は知っている。ただ知っている程度で好きでも嫌いでもない。なぜ観てしまったのか。
弟に「銀魂観に行く」と言ったら「落ち着け」と言われたにも関わらず。
僕はクソ映画好きなのかもしれない。
というのも、クソの臭いを嗅いでおかないと、カレーとクソの区別がつかないように、クソ映画を見なければ、いい映画が語れないと思うからだ。

以上、何か哲学論争のような独白になってしまったが、皆さんにクソの臭いを嗅がせてあげよう。

さて。
この映画、キャストは豪華絢爛である。福田雄一という監督の映画にこれだけ集うということは、きっと福田雄一には「強力な何か」がついているんだろう。
伝統的かつ退廃的なテレビ界の流儀として、「豪華な人にこんなことをさせました、面白いでしょ」という悪しき流儀がある。これは最初にやった人がすごいんであって、続いた人間は面白くもなんともない。どう見ても腐った大豆にしか見えない納豆を最初に食べたやつはすごいと思うが、その後納豆がうまいことがわかって納豆を食って胸を張ってるやつがいたら、確実に頭がおかしいやつであるように、もう使い古されたこの流儀を映画に導入するとどうなるか…。
納豆役者の筆頭になるのは近藤勲中村勘九郎。彼はほぼ全編裸でスクリーンを走り回っている。いや、自分で書いてて面白くない文章になってるのがとても心苦しいのだが、本当にそうなのだからこれを1800円払って2時間見せられる私の気持ちを忖度して許してほしい。
いいのか勘九郎、天国で勘三郎が泣いてるぞ。

内輪ネタはそもそも僕が内輪にいないので、理解できないし、理解できないものは脳に残らない、というわけで1ミリも覚えてない。こんなことに1バイトも脳の容量を割きたくない。

そして、福田雄一の真骨頂。「面白くないことをあえてやる俺面白くない?」現象、色々省略して「面白くない現象」と呼ぼう。
劇中「面白くない現象」は何度も起きるのだが、1番記憶に残ってるのは、発明家的な人のところに行くと、シャアがザクを修理してた的なエピソードがある。これ、原作にもあるっぽい。
今一度確認しておきたいんだが、映画と漫画は違うメディアだ。いや、馬鹿みたいな確認なのはわかっている。ただ、それを知らない人が作ってるのではないかと思ってしまう。
漫画はページオチという技が使える。開いて左のページにつかみを持って来て、次のページでオチを見せる。もともと漫画はコマ割りをして、カット間を飛ばし飛ばし書いて、その行間を読者が動きを想像して埋めながらストーリーを展開していくもので、だからこそこのネタは面白い。
ただ、実写映画で生きた人間がこれをやると単なる瞬間移動と時空の歪みにしか見えない。そこで懇切丁寧に前置きをした上でオチを持ってくるという形になる。宴会で若手社員が「これから面白いことやるんでしょ」という面白くない先輩のフリを受けて、なんかやったとして滑らないはずがないように、「これから面白いことやりますよー」って前置きしてなんかやって面白いはずがない。これは視聴者はバカだというテレビマンの基本姿勢に関わってくると思うのだが、だいたいにして視聴者より作り手の方がバカなだけだったりする。

と、い、う、わ、け、で。
皆さんクソの臭いは嗅げましたでしょうか。
この長々とした映画評の締めくくりとして、ふと思ったことを書くと、クソは人間が生きるのに必要であるのに対して、この映画は映画界に必要ないわけで、この映画をクソ映画というのは失礼無礼極まりないかもしれない。もちろん、クソにとってね。