素人サブカル批評

草映画ライターとして映画評論。たまに他のサブカル評論。

第3回『時計仕掛けのオレンジ』~ある作家の復讐~

今回取り上げるのはスタンリー・キューブリックの名作『時計仕掛けのオレンジ』。

映画公開は1971年ですが、原作は1962年出版の同名小説です。作者はアンソニー・バージェス

舞台は近未来(当時から見て)のロンドン。アレックスは仲間4人と不良グループ、「ドルーグ」を作って、日々暴力行為(彼らの言うウルトラ・バイオレンス)を繰り返していました。

路上で寝ていたホームレスを棍棒でボコボコにしたり少女をレイプしようとしていた他の不良グループを襲撃して棍棒でボコボコにしたり、作家の家に押し入って縛った作家をジーン・ケリーの主演作『雨に唄えば』のテーマ曲を歌いながら蹴りつつ、妻をレイプしたり、やりたい放題です。

こんなひどい行為を繰り返すアレックスですが、その描き方は実に魅力的です。自由気ままに発言をし、不良少年を率いていても、かっこいい服を着こなし、ベートーベンをこよなく愛します。奔放な発言とファッションセンス、カリスマ性と音楽的才能はロックスターのようです。キューブリックはここまでの描写でアレックスをわざと魅力的な主人公として描き、観客が彼が暴力行為から感じる快感を共有させようとしています。ここで言いたいのは「ほら、人間なんて、みんな根源的には暴力的なんだよ」ということでしょう。

ここまでの描写でもう一つ、特筆すべきことがあります。それは「ドルーグ」とアレックスたちが襲撃した不良グループ(「ビリーボーイズ」だったかな?)の服装です。

「ドルーグ」はイギリスのトラディショナルスーツのようなものを着こなし、ステッキを持っています。「ビリーボーイズ」はナチスの制服のようなコスチュームです。これは1960年当初イギリスで一種の二大流行となっていた「モッズ」と「ロッカーズ」の対立のメタファーとなっています。「ドルーグ」は「モッズ」で「ビリーボーイズ」は「ロッカーズ」です。この当時の「モッズvsロッカーズ」の構図は『さらば青春の光』という映画で詳しく描かれています。ちなみに『さらば青春の光』はモッズを代表するロックバンド、ザ・フーのアルバム『四重人格』をもとにザ・フー自身が作った映画です。つまり、この作品の舞台となったロンドンは近未来とは言いつつも出版当時のロンドンなわけです。もう一つ近未来じゃなくて現代であることが示唆されるのが、「ドルーグ」に棍棒で殺されるホームレスの「なんて時代だ。人類は地球の周りを回り、月まで行ってるのに誰も地上の秩序には注意を払わないんだ。」という言葉です。アポロ11号が月に行ったのは映画公開の2年前1969年のことです。この表現も「現代です」というメタファーと言えるでしょう。

ちなみにアレックスのしたいこと「レイプ、薬(ドラッグ入りミルク飲んでる)、暴力」は出版当時の若者たちが実現します。それが「セックス(=レイプ)、ドラッグ(=薬)、ロックンロール(=暴力)」ってやつです。

 

これまで順調に暴力を楽しんできたアレックスでしたが、ちょっとした軋轢から仲間に裏切られ、強盗を失敗した挙句、男性器の形のモニュメントで老婦人を殴り殺した上で警察に捕まり、刑務所に収監されます。ちなみに男性器というのはアレックスの性欲を象徴しています。レイプするときにつけるお面の鼻、CDショップでアレックスがナンパした後3Pする少女が舐めてた飴など、アレックスの暴力や性行動にかかわる場面に登場します。ちなみにアレックスを保護観察している男も「よい子にしてたか?」と聞きながら、彼の性器を握ります。「よい子」の主題はそこにあるわけです。

しかし、その刑務所を訪れた内務大臣に見いだされてルドヴィコ治療という治療を受けます。これはオペラント条件付けと言われたネズミの実験(レバーを押すと餌が出る仕組みをネズミに与えると、餌が出なくてもレバーを押し続ける)を人間に応用するものです。まあ、わかりやすく言えば、有名な「パブロフの犬」を人間にも適用できるだろ、ってことです。不快感を与える薬を投与しては無理矢理暴力の映像を観させ続ければ、暴力を不快に感じるようにさせるという治療であるルドヴィコ治療をアレックスは受けます。彼が見る映像にはナチスの大量虐殺が映っているようです。彼の暴力なんて国家の力が総動員された暴力に比べれば、しょぼいもんだったわけです。

治療の結果、彼は暴力を不快に感じるようになりましたが、治療中にベートーベンもかかっていたために副作用でベートーベンも嫌いになってしまいます。彼はどこにいっても居場所がなく、あんなに魅力的だったアレックスは惨めに描かれます。生気がなく、国家によって統制された彼はまさに時計仕掛けのオレンジです。時計仕掛けのオレンジ a clockwork orangeはコックニー(ロンドン下町言葉)で「張り合いがなく、バカみたいな奴」という意味です。ちなみにバージェスはフィリピンにいたことがあり、現地語でorangは人を表します(ちなみにオランウータンorangutanは「森の人」という意味)。そのことから、a clockwork orangeは時計仕掛けの人間という意味を持つという説まであります。

これはキューブリック(そして、バージェス)の「どんな暴力も国家の飼い犬のようにされることに比べたらマシだ」というメッセージかも知れません。

 

しかし、話はこれで終わりません。昔の仲間にいじめられたアレックスはとある家に逃げ込みます。その家は彼が逮捕前に押し入って妻をレイプした作家の家でした。レイプ後、彼の妻は自殺し、作家は半身不随になっていました。アレックスはルドヴィコ治療のことを作家に伝えます。その作家は人権擁護派なのか、アレックスを担いでルドヴィコ治療反対キャンペーンを開こうとします。アレックスはレイプの時お面をかぶっていたので、作家は目の前のアレックスが犯人だとは気づきません。

しかし、アレックスは作家に風呂を貸してもらって入ってるとき、『雨に唄えば』を口ずさんでしまいます。作家は気づきました。彼は真犯人だと。

作家の復讐が始まります。彼はアレックスに無理矢理ベートーベンを聞かせて拷問します。なぜ、この作家は復讐するのでしょうか。「人間は暴力的だが、国家の暴力に比べればそんなもの…」というメッセージは伝え終わったはずなのに、なぜバージェスは続きを書いているんでしょうか。

それはこの作家の妻がレイプされる事件はバージェスの実体験だからです。二次大戦中にバージェスの妻は駐留米軍からの脱走兵である若者にレイプされています。彼の妻は自殺していませんが、一生そのことに悩んでいくわけです。

この原作(映画もある程度忠実)は前半は彼の国家への強烈な皮肉を込めたディストピア小説ですが、後半は彼自身の復讐なんです。事実、アレックスが最初に作家の家を訪れた時に彼が書いていたのは"A Clockworks Orange"、つまり『時計仕掛けのオレンジ』です。バージェスでさえ、復讐という暴力の欲望には勝てないということも表したかったのかもしれないですね。事実、作家がアレックスを拷問しているときの作家の顔は、アレックスの不良時代、彼がウルトラ・バイオレンスを実行しているときのように、恍惚としています。

 

作家に拷問された彼は窓から飛び降りますが、一命を取り留めます。

病院に入院している彼はもう暴力にまったく嫌悪感を抱きません。彼はルドヴィコ治療から「完治」したわけです。そこへあの内務大臣が訪ねてきます。彼は悪名高きルドヴィコ治療からの復活者という英雄として、アレックスに政権支持率の回復への協力を要請され、アレックスは快諾します。快諾した彼にプレゼントとして大音量のベートーベンが届けられますが、彼はもう不快感を示さず、レイプの想像とともに、恍惚としています。彼は完全に元のアレックスに戻ったわけです。

なぜ、彼は自分をあんなにひどい目に合わせた内務大臣の申し出に協力するんでしょうか。答えはこの作品の中にあります。人間は根源的に暴力を好むもので、その権化がアレックスです。つまり、「アレックスがしてること、みんなも実はしたいんだろ?」ってことですね。アレックスは持前のカリスマ性を動員してタレント議員にでもなるんでしょう。彼は、個人レベルの暴力には飽き足らず、国家レベルでウルトラ・バイオレンスを実現するでしょう。何しろ、彼自身が、国家の暴力の体験者なわけですから。

なぜこんなやつが国会議員になれるのかって?

日本にも、レイプ事件を起こすもとになった小説書いた奴が都知事から国会議員に復活したり、少女買春したやつが国会議員になったりしてるじゃないですか。

 

(おしまい)

 

【参考映画】

『時計仕掛けのオレンジ』―1971年/ワーナーブラザース

『雨に唄えば』―1952年/MGM

さらば青春の光』―1979年/ザ・フー・フィルム

【参考文献】

『〈映画の見方〉がわかる本』町山智浩著/洋泉社